Live Life ペースメーカー

ペースメーカーとともにあった40年間をちょっと語ってみます。

徐脈!?

「脈が遅いですよね」と、小児科のO先生は私を見つめて言った。
診察書には「徐脈」と青いペンで書かれている。

何かいろいろ聞かれたように思う。
私は中学2年生になっていた。

 

それまでは、いたって健康そのもの。
小学生の頃は、身長が学年で一番高かった。よく食べていたので、健康優良児に近かった。当時、大食い王選手権があれば、絶対に挑戦していただろう。

水泳が大好きで、クロールは息継ぎなしで33メートル。潜水は25メートルもできた。昼休みになると、クラスのみんなとドッジボールをして遊んだ。

何も不自由はなかった。

ただ、マラソンだけはだめだった。今から思えば当たり前なのだが。
走りだすとすぐに、口から血の味がする唾があふれてきた。
体育の時間、マラソンでは、ドベ(最後)かドベから2番がほとんど。

担任の先生からあまり好かれていなかった私は、
私だからなのか、マラソンの順位が遅いのが気に入らないのか、
ラソンの時間になると、校庭をさらに1周、3周と、罰として追加で走ることを命じられた。

口からこみ上げてくる血の味・・・。
ラソンは嫌いだった。

 

O先生の診察を受け、九州大学病院小児科を受診。
当時の小児科の先生の中に心臓病に詳しい先生がいて、高校生になっても小児科のままの受診だったと思う。

ものすごい人だった。

前の男の子が、「苦しい。めまいがする」と症状を訴えている。
付き添いのお母さんも悲痛な面持ちだ。

「前の男の子、そんなに悪いんですか」と聞くと、「君の方が脈が遅いんだよ」と教えてくれる。

1分間に45回。平常時の脈拍だ。
ラソン後は、90代にはなるが100を超えることはない。

 

「体育は禁止」と病院の先生が言う。
「先生、私、何ともありません。水泳もできるし、今、クラスでバスケをやっていて、休むわけにはいかないんです」

熱心な私の訴えが届いて、中学の担任の先生に宛てた手紙を書いてくださった。
「体育はしてもいいけれど、激しい運動はさせないように」と。

よかった!そのまま、運動もできて、当たり前の生活でいられる・・・。
そんな日々が続くと思っていた。

 

 

ノアザミ

ノアザミ